毒の行方

21日。授業3つ。今日は30度の夏日らしい。何してくれとんねん、高気圧。

「1」注ぎ込んだ挙句に「2」おぼれ落ちる的な時間を生きてしまう。さあ、気をとりなおしてフレッドを読むべ。

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20日。AS大で授業2つ。蒸し暑い。オッサンのチラ見にからめとられた旧知の女史が、わざわざ仕事の手をとめて、話し相手になってくれる。

予想どおり昨日の毒は効力がなかったようで、「情熱」氏からは応答なし。ワシが示した過剰な「丁寧さ」をレトリックとしてではなく、字面どおりに受けとめたのであろう。すかさず、「アイロニー」について勉強すべくPaul de Manを手にする。うそ。

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19日。いらっーーーーーーーーーーーーとさせられる。ワシ自身を含めた数人の大人たちが集まって話し合った結果まとまった提案を穏当なかたちで報告したら、「そんなん無理ですね」的虚飾なさを身にまとった一刀両断の返答が送られてくる。その返答に対して、今度は、必要以上の丁寧さを装った返答で応戦する。曰く、「たいへん建設的なご意見を頂戴し、ありがとうございます。賢明にも先生がご指摘くださった点は……」。通常、「必要以上の丁寧さ」は、そのレトリックの過剰さによって「嫌味あるいは皮肉」という名の毒を相手に注ぎいれることになり、その結果、一刀両断した相手の刃を多少錆びつかせることができるはずなのだが、おそらく、この方には効目なしであろう。なぜなら、毒をも燃えつくす「情熱」氏だから。

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18日。「火曜日はいつも雨」という定式が本日をもって崩れる。『現代思想』を2冊古書で買う。ひとつはJ.D.、もうひとつはM.J.の特集号で、共通しているのは、2冊ともそれぞれの人物の「追悼号」だという点であろう。J.D.に対しては、批評理論という観点から必要最小限度の関心を寄せてきたにすぎないし、M.J.に対しては、popという観点から必要最小限度の関心すら寄せたことがなかったが、まあ、手にしてしまう。ワシの関心は、来週の火曜日が雨になるかどうか、ということにしかありませねからな。

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17日。少し汗ばむような陽気のなか、授業2つ。週末、白川郷に行ってきたという学生の話を聴く。

なにしてくれとんねん。