8年後の追悼

昨日でK. Kobayashiが亡くなって8年という月日がたった。ちょうど10歳年下のワシは、あいにく生き残って、ここ数年は息子氏の子育てに奔走している。K. Kobayashiは、あいにくワシの息子氏を眼にすることはなかったし、おそらくは、ワシが子育てにいそしむ日々を送ることがくるなど、生前は想像だにしなかったにちがいない。8年経ってもワシの喪の作業は継続中なのかもしれないが、「不可解な出来事だったな」という思いが時に頭をよぎることはあれど、たとえば「K. Kobayashiのためにも……」的な気負いは、8年前から現在にいたるまで一切感じたことがない。生前はいい湯加減の距離感で接していただいたように思うから、お亡くなりなってからも、いい湯加減の距離感が持続されているのかもしれない。それゆえにであろうか、K. Kobayashiは、過剰なaffectを惹起することなく、ワシのなかでいい湯加減のままいまも残存しつづけている。豪快に笑う人だったが、いまは菩薩のような笑みをうかべている。con un sorriso.

 

2年後ぐらいにまた書きます……。

 

 

 

時は過ぎる。

もうすぐ午前3時。少し疲れた。次元の異なる複数の事象に折々で対応していかなければならないので、ときどき訳がわからなくなってくる。ずいぶん大人になったものだ。対応できているのか、それとも、できていないのかは、実のところ自分でもよくわからない。それでもなんとか時は過ぎていってくれる。そして、午前3時になろうとしている今。

 

お元気で……。

Marjorie Perloff

午前2時を過ぎてしまった。悪い流れだな。

Lois Potter, Shakespeare and the Actor (Oxford UP, 2022)がやってきた。ウィトゲンシュタインを読みはじめたのだが、そういえばMarjorie Perloffはお元気かなと思って検索してみたら、91歳でご存命のようだ。よかった。その昔、日本にやってきたPerloffの講演を聞きに行ったことがあったし、彼女の本も数冊買って読んだ。詩がいちばん身近にあった幸福な時期の出来事であった。そのころはEzra PoundとかAllen Ginsbergとかを読んでましたからな。

 

年をとった……。

数の退屈さ

今日はまだ午前2時を過ぎていない。昨日は結局午前3時に寝ることになってしまった。悪い傾向だ。

 

某専攻の方の業績表を見る機会があった。そこには、とてつもない数の査読論文のタイトルが並べられていた。関心するとともに、なにか……なものを感じてしまった。この……はなんだろう。それぞれの学問分野には、それぞれの流儀があるので、ワシには……と感じることができるくらいで、これについて良し悪しを問うことはできない。ただ、まな板のうえにのせられると、この〈数〉と別の〈数〉が同一の地平で比較されて、優劣の判断材料にされてしまうことになる。なんとなく、退屈だな。

 

とりあえず、寝るか……。