師の笑顔と故人の書き込み

10日。あまり眠らずに文字を書きつづけているのだが、いっこうに進まない。気晴らしに書類作成をして提出したところ、「主任名+印鑑」のところにワシの名前と印鑑を押してしまったようで、事務の女子に「本当にセンセイが主任だったら助かるのに」と笑顔で言われてしまう。この発言が、ありがたいのか、ありがたくないのか、即座には判然とせず。

* * *

9日。非常勤の先生を集めた会合(弁当付)。2時間あまりひとりでしゃべりまくる。いや、資料作成から出欠確認から弁当発注から……ひとりでやりまくる。ある非常勤の先生が喧嘩腰の発言をしてくださるので、ワシもキレそうになったとか、ならなかったとか。そして、しゃべりまくっていたので食す暇がなかった弁当を、会合終了後にひとり会議室で口のなかにほうりこむ。しかも、欠席者が発生したので弁当2つを立て続けに無理やり食す。その後、昨日の会議の報告書を作成して送信し、会議1、会議2をこなす。そして、ここから自分の勉強開始。

ドミニク・ラカプラ『歴史と批評』読了。この本のなかにヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』の翻訳が「刊行予定」となっているのですが……。カズオ・イシグロの『充たされざる者』は半分ぐらいでとりあえず投げ出した。

* * *

8日。ふと古本屋にたちより、ふと手にとった本に書き込まれていた文字に驚く。それは昨秋突然お亡くなりになった方が記された文字だった。この方が収集された芝居のパンフレット類は同じ関心をお持ちの東西の大学人に引き取られ、蔵書は故人を師とする者たちや故人と親しかった者たちに引き取られ、残りの本は古本屋に引き取られて行ったことを、先日の「○だ万会」で耳にしていたばかりだった。ワシのところに形見分けに関する声は届いてこなかったので、〈運命の女神〉がワシのことを不憫に感じ、こうして故人からの贈与の機会をさりげなくもうけてくれたのであろう。とりわけ書き込みが多く残されている2冊の書籍を引き取らせていただく(ちゃんとお金を払いました)。一冊はフェミニズムに関する本、もう一冊はニューケンブリッジ版『から騒ぎ』だったが、そのうち前者を「死にたくなったら、これを見て思いとどまりなさい」と付言しつつ後輩氏に進呈する。氏は学部時代に故人の授業に出ていたそうで、その授業のなかで故人は「本を読んだときには読んだ日付を書き記しておく」と述べていたそうだ。なるほど、両方の書籍とも、色々な日付がところどころ記されていたりする。そのような日付の痕跡が、いまはもうこの世から旅立ってしまっていても、その方が生きた「生」の確かさを保証してくれているようで、少し安堵するとともに、やはり物悲しくなる。

* * *

7日。もうわけがわからないぐらいの雑務をこなしているので、もうわけがわからなくなっている。

* * *

6日。「師を囲む会」あるいは「(色々バタバタしてあれやこれやとお店を思案し、後輩氏が高級中華料理屋に電話で軽くあしらわれつつも、なんとか歯を食いしばり、最終的にはやはり落ち着くべきところに落ち着いた)○だ万会」が開催される。メニューのなかに、たしか「百合根饅頭」的なものがあったと思ったのだが、どうやらそれはワシの幻想であったようだ。時ならぬ暑さに見舞われたが、なんとか無事に会を終えることができてよかったなり。「僕が死ぬのは○○○か○○○だと思うよ」と述べて自分の死因を笑顔で予想する師が楽しそうだったので、よかったなり。

お元気で……。