コトバとモノガタリ

2日。いまさらながら、水村美苗私小説from left to right』(ちくま文庫,2009)を200ページほど読む。左から右へと流れるセンテンス、日本語と英語の混淆、ときおり混じるイタリックなどの文字の物質性については、とりあえず受け流しておけばよろしい。英語が多少読める者ならば、このようなことはすでに日常の凡庸な風景になってしまっているからだ。このようなスタイルを前にして逆に思うのは、漢字の連なりがひきおこす齟齬の感覚の方であり、漢字のつらなりとしての漢詩を日本語にそっと忍び込ませるSoseki先生の異質性の方なのだ。ただ、電話が生成するコトバたちが占拠する部分は使えるかもしれない。

N大にインフル到来。いるはずのお客が半分以上いないため10分で終了する。稀に見る英断なり。

You bet!……。

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1日。蓮實重彦『物語批判序説』(中公文庫,1990)の第一部160ページを読んでやめる。抜きに出た特権を付与するような言説の構造から、曖昧に承認をあたえあうような言説の構造へと連なるゆるやかな持続について語られていたような、あるいは、いなかったような……。承認という抽象においてはあらゆるコトバが他人のものとなる、と言っていたような、あるいは、いなかったような……。第二部には、プルーストサルトル、バルトなどと綴られる者たちに対してついやされたコトバたちがならんでいたような、あるいは、いなかったような……。

著者の役割を引き受ける者がしたためる他人のコトバたち−−

この辞典[フローベール紋切型辞典』]が知の圏域に生産しうるものは、いわば失望のみである。ついにかなえられなかった希望を前にした落胆がそうであるような、そうした相対的な失望ではなく、それじたいが積極的な機能と体系とをそなえた、つまり希望の不在や消滅によって定義されることのない、そして、それ自身が生成の原理をそなえた確固たる失望が、そこに具体的に生み落されるのだ。欠落としての不在ではなく、過剰としての失望。やがて、諦念から頽廃へと滑り落ちることになる無気力な失望ではなく、濃密で、鮮明で、あらゆる肯定的な側面をそなえた失望。つまり、その代償として何かを追い求めるといった行為へと人をかりたることなく、方向を欠いた運動を具体的にあたりに波及せしめうる失望。方向を欠いたというのは、明らかに存在している方位を把握する能力がかけているからではなく、方位そのものを意識にのぼらせることなくひたすら偏心することしか知らぬ運動ということだ。(19ページ)

Deleuze……。