批評あるいはギャク

ずいぶん肌寒くなりました。

『スポーツ…』を読了する。著者がナカータやナガシーマに費やすことばは、著者自身の批評にもあてはまる。ただ、著者の誘惑に身を任せて「神に愛されている……」ということばを批評として大真面目に受け止めてしまってはいけない。それは醜いことなのだ。ましてや、著者の経歴に言及したり、〈知的スノッブ〉などという誰もが語り得る(しかも、誰もが納得し得る)ことばを用いて、大真面目に批判しようとすることなど、醜悪の極みとなってしまうのだ。考えうる唯一の態度とは、笑いながら読むこと、つまり、著者の「正論」をギャグとして読むことではないだろうか。そして、本書のいちばんのギャクは、とびきり鋭利な運動神経を顕在化させている対談相手クサーノ(=ハスーミ)の存在だということを見逃してはならない。いや、この対談でのハスーミは、クサーノの運動神経を刺激することで、自作自演的に「コーチとはこういうものだ」と示しているのかもしれぬ。危ない危ない。(※固有名詞を某国サッカー代表元監督風に表記。)

「知性を欠いた人間は、というより知性に嫉妬を覚えることのない人間は、いかなるジャンルにおいても批評家たりえません。」(187ページ)

ジャック・デリダ『コーラ−−プラトンの場』(未来社,2004)を購入。

嫉妬しちゃうわぁ……。