風邪つづく

11日。朝方雪が舞う。『外の思考』を読むかわりに、明日レポート担当になっている論文を研究室で読む。が、風邪が悪化して脳ミソが働かない。おまけに、眠い。

ゆえに、逃避中……。

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10日。寒波。N大で補講らしきもの。少し早めに行って来年度のシラバスを入力する。が、画面には何度もエラー表示がでる。句点のあとに半角スペースが紛れ込んでいた箇所がひとつあり、PCは執拗に「エラー」を連呼する。一時間を経過しようかという頃、ちょうど冷静さが5割ほど消し飛んだあたりで、ようやくPCの癇癪の原因を究明する。全角と半角の混在する文章を認識してくれないのは百歩譲ってよしとしよう。ただ、エラーを叫ぶならば、そのエラーの所在くらいは教えておくれ。それまで雄弁だったPCは帝王の振る舞いで黙して語らず。この敗戦ムードを払拭すべく、ミシェル・フーコー『外の思考−−ブランショバタイユクロソウスキー』(朝日出版社,S53)と新井潤美自負と偏見のイギリス文化−−J・オースティンの世界』(岩波新書,2008)を古書で買う。前者をチラッと読み、このつるっぱげの哲学者と『大江健三郎論』の著者の役割をひきうける者が、反復的関係を生きていることを想う。

『絶対文藝……』を読了する。「表象」、「観念」、「文学主義」に身を任せ、「ジャーナリズム」の言語を操って「文壇」なる世界のなかで自らの位置を再確認せざるをえない者たちへの激烈なことばが躍動する。このような者たちのように、ほどよく「文学主義」と折り合いをつけてしまうことは「醜い」振る舞いなのであり、いま真に求められているのは「文学」と戯れてみせること、ことばの厚みをそっと撫でてやることなのだ。「文学」など皆目見当がつかない者たちがつむぎだした「ことば」、つまり、「愚鈍さ」が貫かれた「ことば」に「価値」があるなどと恥じらいもなく述べてしまわなければいけないくらい、いまは醜悪なのだ。ハスーミにとって醜悪さの極みと言ってもよい存在が、『男流文学論』の著者であることに疑念を抱く気配すらない者たちだ。ここでは、解かっていると自認することの「下品さ」が語られる。ただ、「文学主義」に身を任せる者は、ここにいたって、「文化左翼」と接合されることにもなるため、そっと、わが身を振り返る。重要なのは、つるっぱげの哲学者が言う「ことば」の赤裸々さであり、「外の思考」なのだ。ということで、『外の思考』へ。

風邪継続中……。

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9日。授業らしきもの2つにテスト1つ。その後、来年度のシラバスを書く。

あああ……。