ボーダーの男

17日。
朝猛烈な雨に襲われる。
傘をさした事務の女の子が笑顔でワシに手を振ってくれる。
オッサン、微笑むの巻。

イタリア人ですから……。

* * *

16日。石原千秋漱石と三人の読者』(講談社現代新書,2004)を読了する。漱石の小説が発表された媒体に注目し、そこから想定される読者層を限定し、その読者が行ったであろう読み方を提示する。このようなかたちで限定される読者の読みを、いくつかのレヴェルで、しかも、多層的に許容する余地をもっているのが漱石の小説、と述べられているようだ。読者の存在を漠然と一元化して事タレリとしてしまうのではなく、ある制約のもとにいくつかのレヴェルで複数存在する読者の布置をテクストのなかに見定めようとする身振りは、厳密かつ誠実な批評態度だと思う。ただ、テクストや作者つてそんなに融通無碍だつたり全能だつたりするのかひね?……などとも想ふ。 

N大で授業評価。いちばん多い意見は、「先生はボーダーしか着ないのですか?」という質問であった。いかにも女子らしい。その後自分の大学に帰って、労働に関する会議。が、政治に詳しい一人っ子のゴルバチョフ書記長がまたしても来ない。いかにもゴルバチョフらしい。

いいえダテ男ですから……。

* * *

15日。論述試験100枚を採点して消耗したあと、会議に出る。やれやれ会議も終ったな、と思ってテーブルに両手を置いて立ち上がろうとすると、眼のまえのヒトが発言を求めて手をあげている。やれやれ会議はケイゾクか、と思って座りなおすと、そのヒトではなく別のヒトが指名されて発言することになる。その発言それ自体を含めて、しばし醜悪極まりない時間が流れる。さてさてお次の発言に備えるか、と思って身構えていると、眼のまえのヒトはもう手を上げようとはしない。このことから、発言をしたヒトと眼のまえのヒトは同じ趣旨のことを腹のなかであたためていたのだ、という論理的帰結が得られる。さらに論理をすすめれば、両者は同じ醜悪極まりない発言に専心していたことになり、さらに論理をすすめれば……。ワシの眼の前に座っていたのが、誰あろう、紅く燃えたぎらずにはいられない「情熱」その人である。

発言したヒトは……。