コウモリからバカまで

13日。あたなは本当に○○ですね、と言ってやりたくなるようなメールがくる。

『門』を読了する。宗助は「門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」(208ページ)であるが、この状態を「幸福のようなもの」へと転じる身振りを、彼とその妻は心得てきた。それは「仕方がない」と言って「苦笑」してみせることにほかならない。このような身振りを存在のレヴェルで考えることほど愚かなことはなく、あくまでこれは言語と行為のレヴェルでのみ考える必要があることなのだ。ただ、この「仕方がない」を存在のレヴェルで試練にかける機会が作中皆無だというわけではなく、宗助にとって「参禅」がそのひとつの機会になっている。「もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ」(200ページ)という老師のことばが生々しさを帯びるのは、このことばが宗助の存在を「ぎろり」としたものに物質化するからだ。

宗助は最後に言う−−「うん、然し又じきに冬になるよ」(217ページ)。

仕方がないよね……。

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12日。授業2つに会議1つ。漱石『門』を読みはじめる。

暑い、つづく……。

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11日。The Country Witを読了する。田舎者は笑われる。

暑い……。

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10日。『漱石論集成』575ページを読了する。漱石は小説を書いたのではなく「文」を書いたのだ、という主張につきる。3分の1の長さにカットできるような……。

それから……。

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9日。電車に揺られ、ある街にたどりつく。そこで、パスタ・ランチを食べ、図書館でThe Country Witの第三幕を読む。そして、ふたたび電車に揺られ、もとの街にたどりつく。

帰りの車中で、迷い込んだ一羽のコウモリが狂喜乱舞するさまを目撃する。車掌さんが悪戦苦闘しながらも、なんとか彼(彼女)を外の世界に導き出してやる。その瞬間、乗客からは拍手がわきおこる。ワシも手をたたく者たちのうちの1人。

パチパチ……。