営業2日目

スタバでHollandをまとめる。そのなかから3つ。

①'scene'とは演技する役者をとりかこむdeep areaである。そのなかで役者が演技しているとき、彼らは'scenery'とともにあるであって、'spectators'とともにあるのではない。sceneic area内部での演技という伝統については、まず、William Davenant, The Siege of Rhodes(1656, Rutland House) & John Webbを考えなければいけない。
②役柄に役者が没入すること、台詞を語っていないときにも役者は演技しているということ、proscenium archの背後に演技の領域が移行すること、役者と観客が分離されるということ、芝居の世界を全くの虚構(現実ではなく表象)として享受すること……18世紀ぐらいから前景化されてくる、これらの諸関係。
③王政復古期に出版された芝居のテクストは上演(初演)の記録であり、実際の上演をあとで再構成してみるために、読者はテクストを読む。出版された芝居のテクストには上演のコンヴェンションが書き込まれており、読者はそのコンヴェンションの解読を行っていることになる。ただ、John Drydenのように、芝居のテクストを読むもの('poem')と考えていたり、William Congreveの『著作集』(1710年)のように、芝居のテクストから上演の痕跡を消去し、読書行為という目的のためだけに出版されたテクストもある。こうなると、実際の上演の再構成としての読書行為は成立しなくなる。

役者と観客の距離が問題になる[Davenantを見ること](①と②)。芝居のテクストから上演の場面を考える場合、一定の留保が必要になってくる(③)。上演再構成型テクストと読書行為専用型テクストをえり分け、両者がwritingという点でどのような相違を抱えているか、具体的に考える必要がある。もっとも、役者の存在を完全に消去したかたちで王政復古期演劇を考えることなどできない、とHollandも述べていますがね……。テクストの肌理って難しい。Wycherleyの喜劇とCongreveの喜劇を比較しながら精読してみっか。

その後、Ginzburgの第1章(T・モア『ユートピア』論)を読み、『イギリス紳士のユーモア』を読了する。後者については、OEDで'gentle'と'genteel'をひいてみっか、と思う。

夜、昨日の女子からまたメールがくる。抱えきれないことが色々あり、ある決断をした模様。彼女の性格を知るワシは、その決断を肯定してやることしかできない。頑張ることよりも、幸福であることを考えなさい……間違ってるかもしれませんが。そんななか、台風が知らないうちに通過していく。

雨がココロに音をたてる……。