弐拾壱世紀中年

台風一過、でも蒸し暑い。

Ginzburgを読了する。あるテクストのなかに残存する別のテクストの痕跡をたどることでWorld Perspectiveになるのかね……まあ、新歴史主義なんですが。〈島〉という局所的なものを〈世界〉というコンテクストにすんなりと埋め込むことができるのは、テクストの肌理(言語の歴史性)が一方にあり、さらに、このテクストの肌理と共犯関係を結ぶことを決意する精読という行為がもう一方にあるからなんですが、この共犯関係はまあ良いとして、これによってもたらされる読解の結果をすんなり〈世界〉と言ってしまうことがひっかかるのかな。このときに批評がすんなりのっかかる〈世界〉が胡散臭いと思うのです。色々な意味で、批評が〈世界〉を夢見るのは必然的なことだとは思いますが……。

その後、Mark S. Dawson, Gentility and the Comic Theatre of Late Stuart London (Cambridge UP, 2005)のイントロを読む。Dawsonは、特定の人物集団や階級制度内の一部分にgentilityを固定させるのではなく、社会を流動する社会=文化的言説としてgentilityをとらえ、そこに介在する権力と意味を読解する、という批評戦略をとるそうです。(著者も自認するとおり)これも新歴史主義。

新聞紙上で『弐拾世紀少年』のロケ地にワシが暮らしている自治体がつかわれたことを知る。まあ、それだけ田舎ってことなんですけど……。弐拾世紀にはワシもここで少年してましたよ。かなり卑屈なね……。いまは弐拾壱世紀中年。

饅頭食べたい……。