血の味の連休

連休など無きに等しい。色々とやることだらけで、閉口する毎日なり。それらが手前のことなら、まだしも納得がいくのだが、大方はそうではないので、われしらず唇をかみしめる日々がつづくなり。もう唇が血だらけで、口のなかは血の味しかしません。

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4月28日。『酒と涙とジギルとハイド』@東京芸術劇場。初演の優香も見たが、この再演の優香も見ないではいられなかった。オルケスタ・リブレでの演奏同様に、お二人方が彩る音楽がやはり秀逸だと感じる。それはそうと、最速先行予約でチケットをとったのに、初演同様後ろから2列目とは、どういうことやねん。

ショックなことがあった。芝居終わりで劇場近くの古本屋に立ち寄ったら、閉店していた。池袋の某大学近くの店なのだが、このような立地条件でも営業維持が困難だとは……。その後、なんとなく時間があいたので、ある古本屋を目当てに、神保町近辺に移動してみたら、そこも閉店していた……。閉店のはしごをしたわ。

『百年の秘密』で書き残したことがある。老婆を演じるときの松永玲子の立ち居振る舞いに息をのんだのだが、それは、もうとっくの昔に死んだ祖母のそれに瓜二つであったからだ。おそるべし。

真の意味での連休をプリーズ……。

『百年の秘密』再演

14日。ナイロン100℃『百年の秘密』@本多劇場。初演も見たが、この再演も見ることにした。初演同様、舞台の使い方が秀逸だと思った。登場回数は少ないものの、みのすけ演じるチャドの切なさが身につまされた。ワシ自身が年をとったということでしょうかね。たぶん、そうなのでしょう。

ところで、ぴあの先行予約当選アップ券はあてになりませんな。あたりまえか、応募者の大半がこの券を使用したら、意味がないわけですしな。

さてと、生きるか……。

記憶のなかの芝居

20日。『赤道の下のマクベス』@新国立劇場。個人の意志ではどうにもならないような歴史のうねりに絡みとられ、あげく死をつきつけられた状態にある者たちが営む最後の生が舞台上でくりひろげられる。幕があがるとメイン・キャストは入退場なしで終幕まで舞台上に居つづけることになるため、さぞかし緊張を強いられたことだろう。

ただ、たったいま「歴史のうねりに絡みとられた」と記しはしたが、『マクベス』を熟読した者を演じる役者の口からは、死をつきつけられることになってしまったのは「仕方がなかったこと」ではなく、マクベス同様に「みずから選択したこと」なのだ、と語られるので、「絡みとられた」という物言いは、ひとつの側面を言いあてた言葉でしかない。件の者は、『マクベス』の読解によって、自分たちが置かれたいまの状況は「選択したもの」なのだ、という認識にいたるのだが、この言葉を客席で耳にしたとき、「仕方がなかったこと」と「みずから選択したこと」のあいだでしばし思考が停止する思いがした。

それはそうと、『焼肉ドラゴン』にひきつづき、左眼から滴がおちる。覚悟はしていたのだが、滴がおちる。平田満が「オヤジの代わりに……」と言った瞬間に、左眼から滴がおちる。実は、この場面にいたるまえにもうすでに滴が落ちている。

それはそうと、鄭義信は個人的に思い出深い劇作家のひとりにほかならない。記憶が間違いでなければ、いちばんはじめに舞台で見た芝居の作者が鄭だった。むかし劇場中継のようなテレビ番組があって、あるとき、眼帯をした「まひる」という女性と下半身が獣の恰好をした男性が登場する芝居が放映されたことがあった。そのときは、それを上演していたのが「新宿梁山泊」という名前の劇団であったということと、その芝居がとても美しかったということぐらいしか記憶していなかったのだが、それ以外に、なにやら名状しがたい気持ちも残った。そんな気持ちを保有しつつ、もういちどこの芝居を見てみたいと漠然と思っていたところ、「新宿梁山泊」が近隣都市で芝居を上演するというのを知るにおよび、ひとりでチケットを買って観に行った。そのときの演目は『愛しのメディア』だった。実はテレビで見た芝居のタイトルを失念してしまっていたので、「もしかしたらテレビで見た芝居かな」と思って『愛しのメディア』を観に行ったのだが、違った。それでも、『愛しのメディア』という作品から言い知れぬ熱量を感じて、終演後のロビーで鄭の戯曲集を買った。それには自筆サインが書かれていて、とてもうれしかったのを覚えている。インターネットの時代になって、あのときテレビで見たワシの記憶のなかの芝居がなんであったのか、容易につきとめることができた。それは『ジャップ・ドール』という芝居で、先述した女性を演じていたのが夭折した金久美子、男性を演じていたのが六平直政だった。どうやら1991年のことだったらしい。そして、この芝居をしたためたのが、その後『赤道の下のマクベス』の劇作家になる人物だった、というわけなり。『ジャップ・ドール』は戯曲が出版されていないようで、残念なり。

それはそうと、『焼肉ドラゴン』は映画化されるそうですね。左眼から滴がまたおちるわ。

眠い……。

オースティン、内田、京都

ジェイン・オースティン『分別と多感』(ちくま文庫)を読みはじめる。こちらも読みやすい訳文なり。

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内田康夫が亡くなったそうな。実はアサミミツヒコ・シリーズは結構な数を読んだ。ワシは根っからのアホで勉強嫌いだったので、大学受験のときにもなにかと推理小説ばかり読んで現実から逃避していた。思えば、横溝正史の『夜歩く』が推理小説の読みはじめで、いくつか読んだなかで『悪魔が来たりて笛を吹く』にはとても驚かされたのを記憶している。「シャム双生児」などということばを知ったのも、横溝の作品からだった。たしか横溝正史の代表作を大方読んで、そのあとに「同時代の推理小説を」と思って手にとったのが、内田康夫のものだったと思う。ワシの若かりし日の記憶と結びついている内田氏のご冥福を、心からお祈りする。

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3月8日と9日の両日、京都に行く。京都水族館に行ったり、渡月橋を渡ったり、トロッコ列車に乗ったりするも、いかんせん小雨ならびに極寒に圧倒される。外国からのお客さんが多く、自撮り棒がいたるところでニョキニョキとのびている風景にでくわす。景気がいいですな。

眼が痛い……。

ある訳注

ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(ちくま文庫)読了。訳文が読みやすい。どうでもよいが、ずっと『ノーザンガー・アビー』だと思い込んでいたので、思わず辞書で発音を調べてしまった。「……半額切符(開演三十分前に割引になる)でちょとだけお芝居をみましたけど。」(329ページ)という部分につけられている訳注だが、メインの演目終了後に上演されるアフターピースだけを目当てに遅れて劇場にやってくる者が支払う「半額切符」のことではないのかな、と思ったり、思わなかったり……。ロンドンではなくバースの劇場だから、よくは知らないし、調べればよいのだが……。まあ、いずれ、ということで。どうでもよいが、ジョン・ソープは大迷惑なやつ。そして、これもどうでもよいのだが、15歳から17歳のあいだにある一線が存在しているらしい。

エドワード・ケアリーを買いに本屋に行ったら、西加奈子の新しい短編集が置いてあって、一冊だけ「著者サイン本」があったので、ケアリーを買うのを忘れて、それを買ってしまった。

2月28日に、ジョン・テニエルディノ・ゾフらとともにうちの息子氏が誕生日をむかえた。テニエルはとうの昔に死んでるけどね。齢1歳、目下最大の楽しみは「天気予報」のようです。

春は眠い……。

ワシ、怒ってます

結局、Anonymous諸氏は誰ひとりとして成績の異議申し立てをしてこなかった。なんとなく拍子抜けしてしまった。それしても、おのれの成績なんて、そんなものかね。そして、『マルチチュード』下巻は、上巻とともにそっと本棚に戻してしまった。

メール転送機能は便利な反面、とても恐ろしいものであると実感する。二者関係を前提に送ったメールが、先方によって第三者へと無断転送された場合、もともとメールを送った際のコンテクストが幾分かはそぎ落とされてしまい、メールの文面だけが転送者と転送先のあいだで新たなコンテクストを獲得してしまう(まさしく、占有が行われてしまう)。その結果どうなるかというと、転送先から、メールの執筆者に悪感情だけが送りかえされてくることになる。なにが言いたいのかというと、ワシがその転送被害にあった、ということなり。キャラクターにはないが、転送者に抗議文を書いてしまったわ。ワシは関係ないと何度も言っているだろうが。当事者間で直接話し合いをせずに、関係のないワシのところにメールを送ってきてばかりいるから、ワシが大火傷を負うはめになったではないか。いいかげんにしてくれ。泣くぞ。

Tim Keenan, Restoration Staging, 1660-74 (Rutledge, 2017)を読んでいるのだが、先行研究への反論が長くて、なかなか実質的な議論にたどりつかない。誠実といえば誠実だし、理解できぬわけでもないのだが、文章が意気込みすぎていて、読んでいると少し気恥ずかしくなってくる。

怒るでしかし……。