脱兎のごとく氏

梅雨が明けたので、少し湿度が落ち着きをとりもどしたような気がする。エドワード・W・サイード『文化と帝国主義』1巻目を読む。explication de texteと言ったよいのか、close readingと言ったらよいのか、そのような読解実践は意外に少なく、読解ストラテジー的な概説が目立っているな、というのが今回の感想なり。読み手側の折々の姿勢によって、書物もその相貌を変えるということなり。2巻目につづく。

ワシが属する小組織には、慢性的な不和が沈殿していて、事あるごとにそこから特定の不和が顔を覗かせてくる。ただ、それぐらいのことはどこの組織にも存在することなので、とりたてて驚いてみせるようなものではないのだが、この組織にあって、幾分独自性を発揮しているのは、顔を覗かせてしまった不和をふたたび沈殿物のなかに首尾よくおし戻してやる術を心得ぬ方が多いということなり。術を心得ぬのならば、顔を覗かせてしまった不和を不和として相手に受けとられないよう、レトリックを鍛えて、あたかもそこにcivilityがあるかのように装ってみせるのが必要な振る舞いなのではないだろうか。前期も終了しようかというこの時期に、ワシが年度初めに行ったクラス編成について不平をもらしてくる方がいらっしゃるので、「担当者が能力不足で申し訳ありません。またご迷惑をおかけしてはいけませんので、来年度からテリー先生にクラス編成をお願いしたいと考えております。ご多忙のところ申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」というcivilityで応戦してみる。どうだろうか。返信、いまだ来たらず。

電車が駅に到着する。まえの席で爆睡していた大学生が、それに気がつき、いまにも閉まらんとする扉を通り抜けて、脱兎のごとくホームにかけおりる。その際、ワシの足になにかが落下してきた感触がする。「脱兎のごとく氏」のスマホが、脱兎のごとく主が駆け出た勢いで、ワシの足元まで転がり落ちてきたという事情はそれほどの時間を経ることなく知れたのだが、さて、このスマホをいったいどうするべきなのでしょうか……ワシ……この状況で。「脱兎のごとく氏」がスマホを落としたことに気がついて電車内に戻ってきてくれれば、即座に一件落着なのだが、その気配なく安堵の面持ちで氏は歩き去ろうとしている。歩き去ろうとしている途中で気がついて、せめて電車の扉のところまで戻ってきてくれれば、ワシがスマホを拾って手渡しすることができるなと思い、そのような振る舞いを氏がしてくれることを期待して、ワシは電車の扉に近づく。が、「脱兎のごとく氏」は振り返りもしない。そして、電車の扉が閉まりはじめる……。仕方がないので、ワシ、電車の扉に挟まれながらも、なんとかホームに降りましたがな。「脱兎のごとく氏」を追いかけて、ワシ、スマホわたしましたがな。つぎの電車を待つために、ワシ、暑いなかホームでぼーっと待ちつづけましたがな……なんとなく、自分がアホラシク感じてくる。生命にかかわるものを落としていったわけでもないから、車掌にわたしておくぐらいでもよかったな。数日後の電車で「脱兎のごとく氏」に再会したのだが、氏はワシのことなどまったく覚えていない様子だったので、奇妙な安堵感につつまれる。これが日常だ。つぎに出来事が発生した場合は、手渡しするなどという事件性を惹起させることなく、車掌にわたしておくぐらいの日常性で対応することにしよう。

夜中に論述式答案を採点すると、寝不足になる。真と理なり。

Jonathan GoldbergのShakespeare's Handを読んでいたら、少し面白い記述に出くわした。

When is it likely that the United States will elect a president who is black, gay, female, or poor (or even middle class, bisexual, nonwhite, Native American, or just unmarried -- although there once was an unmarried [and gay?] president, James Buchanan)? Presidential elections are scarcely the place one can hope to look for political transformation, I know. (XX)

「現代の政治風土では、選ばれるにしても、Colin PowellやCondaleeza Riceのような人か、Bruce Bawerのようなゲイ批評家だと考えちゃうとdepressingよね……」と2003年にGoldberg先生はおっしゃっております。

眠い……。