Grazie mille.

6月30日にオジイチャンと昼食をともにした際に「一冊本を送るからもらってね」と言われたのだが、その本が送られてくる。表紙をめくると「献呈のことば」が記されている。その「ことば」を見て、背筋がピンとなるような、寂しくなるような、おのれを恥じるような気持ちになる。

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』を読む。この本が単行本として発刊されてから文庫化されるまでのあいだに、ニホンは「ファシズム化」したと訳者は述べているが、それにならっていうならば、文庫化されて今にいたるまでのあいだに、ニホンは「ファシズム体制」になってしまった。一柳廣孝『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉−−日本近代と心理学』も読む。一応、必要性があって読んだのだが、〈千里眼〉の実証をめぐる研究者たちの古の喧噪に、ス○ッ○細胞をめぐる近年のそれが交錯するような錯覚をもつ。

年をとると、一年に一度は突然の別れを経験する。それは必ずしも死別とは限らないので、そのような場合は、別れによって生じる距離を沈黙とともに維持することが、残されたものに与えられた試練だとも、礼節だとも思うようにしている。Fortunaがふたたびその車輪を回転させたときに、どこかで、別のかたちで、再会することもあるだろう。いまは、このような淡い希望を、試練と礼節を堅持するための土台としてココロのなかに置いておくことにしよう。音楽の自由さと楽しさをワシに再び想い出させてくれた友人に、感謝を。Grazie mille.

暑い、眠い、怠い……。