灼熱の憂鬱

すでにしていつのことであったかは定かでなくなっているが、以下に記した日付のうちのどこかで、ひとつの小包がとどけられた。差出人にはかつて教えをこうたProfessor Emeritusの名前が記されていたので、即座にこの小包を開封するのを億劫に感じていたところ、そのまま2日ぐらいが経ってしまった。また新しく出版なさった研究書をお送りいただいたのであろう、ぐらいに思い、その小包にはなんら事件性の痕跡など感じていなかった。

これもすでにしていつのことであったかは定かでなくなっているが、以下に記した日付のうちのどこかで、気まぐれに、この小包を開封してみた。するとなかからは、見慣れない著者名を身に帯びた小説らしき物体がひょっこり登場してきた。小説に対して熱い思い入れを抱きつづけてきたProfessor Emeritusが、機が熟したかのように自身も小説執筆に手を染めることになったのであろう、ぐらいに思い、この物体にもなんら事件性の痕跡など感じていなかった。あえて言うならば、採用されたペンネームにいささかの気恥ずかしさを感じたくらいであった。

その物体が事件性の痕跡を漂わせはじめたのは、任意に開いてみたページのなかに刻印されている文字たちの相貌を、ワシの視覚がとらえたときであった。ざっと見渡してみると、それはProfessor Emeritusにとって、autobiography, roman a clef, apologia, heroic narrativeのいずれとも称しうるようなものであった。かりそめに眼で表層をなぞっただけでも、そこから立ちのぼってくる怨讐と悔恨は言うまでもなく、そこにあるのが当然であると言わんばかりの、恐ろしいまでの浪漫主義的陶酔にいささか食傷してしまった。

さて、この物体がどうしてワシのところに届けられたのであろうか。さて、この物体はこの後なにか問題をひきおこすことになるのであろうか。さて、ワシはどのようなコトバたちを手配してこの物体に対するお礼状をしたためることになるのであろうか。さて、長年愛着をもって小説を研究してきた学者に、老境にいたって、このようなかたちの物体を書かせてしまうことになる小説とは、あるいは、文学とは、いったい何者なのであろうか。灼熱のなか、しばし憂鬱の色が濃くなる。

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7日。授業1つ。七夕だから、Stephen Greenblattを久々に読む。

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6日。NUで授業2つ。試験の話をして少しビビラス(とワシは思っているのだが、学生たちはどうだか……)。『先生とわたし』を読了する。

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5日。DUで授業を2つ。

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4日。パスタセットを食べて、話を聴いて、家電を見て、靴を買って、付け麺を食べて、文庫になった四方田犬彦『先生とわたし』(新潮文庫,2010)を買う。

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3日。雨がふるなかNUで某会議。なかなかに疲労する。

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2日。DUで授業3つ。

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1日。ASUで授業2つ。夜のフレッド会をまたしても中止にしていただく。すんまそん。

苦悩がまたひとつ……。