愚かな私

12日。電車に乗ったら、同僚からメールが入る。どうやらワックスがけで研究室に入れない模様。いつも降りる駅をスルーして、サンマルク・カフェでEtheregeの第三幕を読みきる。その後、古本屋で十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』(講談社,2008)を購入し、場所を移動してシャツを一枚買う。

外は夏の陽気。きっと額に汗がにじんでいたのであろう。シャツを買ったところのレジ係のお姉さんに、「お外は暑いですね」と声をかけられる。その「お外」の「お」の字が音声として発せられたのを耳にした瞬間、「この人はワシとは別の文化圏におられる高貴な方だ」と思ってしまう。おつりを受け取ろうとして差し出した手が、なんとなくギクシャクした感じになる。

夜、TVで鶴見俊輔を見る。少年の頃、真夏のラジオで耳にした「残虐な爆弾……」ということばに無性に腹が立ったと語るとき、彼のその怒りは少年のときのままであった。国民の記憶よりも人民の記憶の大切さを説き、永遠には価値という概念がかかわってくると述べる。永遠は最期の瞬間まで息づくのだ。また、図書館でヘレン・ケラーから「大学を出たあとの生活ではunlearnすることが大切だ」と聞いたこと、ホワイトヘッドが最終講義のいちばん最後にもらしたことば−−"Exactness is a fake." −−が聞きとれず、わざわざ本人に確認したこと、これだけでも鶴見は優れてめぐり合いの達人だと感じる。鶴見のめぐり合いによって知りえたヘレン・ケラーの寡黙な実践は、『ポストコロニアル理性批判』の著者の声高な理論にわずかなりとも劣るものではない。

われ、愚かなり、愚かなり……。

* * *

11日。研究室で勉強する。Sir George Etherege, The Comical Revengeを第二幕の終わりまで読んだところで睡魔に襲われたので、こんな時のためにとっておいた雑用をこなすことにする。

メールにのせてある人に弱音をお届けしてしまう。どうしようもないことなど、自分がいちばんよくわかっていたのです。ごめんなさい。

われ、愚かなり……。