「12」月「4」日。

大江健三郎論』を読了する。先行研究の引用などというものをいっさい身にまとうことがない文章は、したがって参考文献を挙げ連ねるという制度的な堅苦しさからも解放されている反面、これはこれで大江を専門と自称・僭称するものたちからの攻撃の数を増加させこそすれ決して減少させることはないはずなのだが、そもそも、そんな考えを抱かせるような地平からの読書をあらかじめ受けつける隙など「一」瞬たりとも見せることのない本書は、文学作品と批評という「2」の関係をインプロージョンしてしまうな文体的強度と着眼的荒唐無稽さに満ち満ちているのであり、われわれとしては「ただ呆れる」というのが正しい読書方法なのかもしれないのだが、あろうことか『大江健三郎論』の著者の役割をひきうけるものは、大江の作品そのものを自著の参考書として言及し解説をほどこす始末なので、われわれとしても、それに見あうだけの「呆れ」を用意しておかなければ、到底この荒唐無稽さに太刀打ちすることなどできないはずだから、そんな荒唐無稽さを持ち合わせていないいたって凡庸なワシは、「2」日連続で文体をまねることで、『大江健三郎論』という祝祭を見守る「多」数の傍観者たちへと仲間入りをするそぶりを「一」瞬見せるにとどめるだけにしておこう……ハスーミがハスーミ的な意味で「1」になってしまわないように。ただ、『即興文学……』の著者がいかに多くをハスーミに負っているかがわかったということは明記しておきたい。

「18」:「30」から「2」時間の会議をこなす。

今村仁司『貨幣とは何だろうか』(筑摩書房,「1994」)と小泉文夫『歌謡曲の構造』(冬樹社,「1984」)をともに古書で。前者は、「ちくま新書」の栄えある「001」。

数に溺れて……。