ヘーゲル先生

12日。授業でクレームをつけられる。氏曰く、辞書に載っていないのだから調べられないし、知らないことを教えるのが教師の役目ではないか、と。ただ残念なことに、確認してみると氏の辞書にはちゃんと「それ」が載っている……(中学生でも知っていることなのだよ、「それ」は、とココロのなかでつぶやく)。それでも居直るのが現代っ子の悲しい性なのか……。あほらしいという感情が体中の穴からドクドクと滴り落ちていくが、いたって論理的に話をする。強固な自尊心をなんとか保持しようとすること、論理的説明に耳をかせないこと、コジツケを語って相手の議論の本筋をそらそうとすること、自分の勉強不足を棚にあげてその責任を外部に転嫁せずにはいられないこと……これらのことを身をもって体験する。またひとつ、ここにいることのアリバイを手放す。

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11日。ベンヤミンを460ページまで読む。氷のように冷え切った教室で、水のようにつかみ所のない学生たちに教える。guineaという貨幣がイングランドでなぜ必要とされたのかを知ることのほうが、giveの会話表現を100個暗記することよりも大切だと考えているのは、ワシだけのようだ。凍てついた氷の世界は鏡となって、幾重にも孤独を写しだす。来年はもうここにはいない。

ベンヤミンを書く3〉
「カントは小学校の教師と古代ローマ護民官の、ちょうど真ん中に立つ標識である」(283ページ)

「彼の講義は二つとも聴いていた。つまり、哲学史と、法哲学だ。彼の講義ぶりは、外面的なことはすべて度外視して言えば、ただもうまったく自分自身とだけ向きあっている感じで、ほかの人間たちと向きあっているということは意識していない風だった。言いかえれば、彼の講義は聴衆に向かって話すというよりも、はるかにずっと、声をともなった沈思というものだった。それで、彼の声はくぐもっていて小さく、口にされる文のかたちも、そのときそのときに思い浮かんできたような、不完全なものだった。だが同時にそれは、まったく誰にも邪魔されないというわけではない場所でこそ獲得されるような、そんな思索だった。」(399ページ)

FD的に言うと、ワシ同様、ヘーゲル先生は完全に失格です……。