スズメと色気

お嬢さんから、建物のなかにスズメが迷いこんでいると告げられる。眼を閉じてじっと日向ぼっこするスズメは、お嬢さんが言うとおり、ヌイグルミのように見える。彼の静けさは、閉ざされた世界で生きていくことを決心した諦念の身振りを表しているのか、それとも、広い世界への救出を穏やかに待つことを決意した希求の身振りを表しているのか……。キミはニンゲン以上に隠者のタタズマイをかもし出しているよ。そっと広い世界に解き放ってあげる。

『テアイテトス』から−−
「テオドロス: わかりました、ソクラテス。あなたがたの市民のなかの、わたしがこれまで出会ったひとりの青年のことをわたしが語り、あなたの耳に入るのは、たいへん意義のあることです。しかも、かりにその男が美しかったとしたら、その者にわたしが色気をもっていると思われないよう、たたえることを恐れたことでしょう。しかし現実には−−こんなことを言ってもどうか不愉快にならないでほしいのですが−−かれは美しくありません。そして、めくれた鼻といい、出目といい、あなたに似ているのです。あなたほどにひどいわけではありませんが。」(12〜13ページ)

知への愛に注目を向けている若者テアイテトスとソクラテスの対話を成立させるためには、〈醜さ〉という〈かたち〉の共有が存在しなければならない。ただ、〈醜さ〉の共有が言及される前に、この関係を取り持つ第三者テオドロスの〈色気〉がそこに介在していないということが周到に確認されなければならない。これが確認されてはじめて、テアイテトスとソクラテスの〈醜さ〉に基づく関係性が成立し、さらには、彼らとテオドロスの関係性も成立することになる。〈色気〉と〈醜さ〉は共存しない。〈醜さ〉が単なる〈かたち〉の共有としてあるならば、〈色気〉とは、〈かたち〉が共有されていなくても稼動する志向、美という対象への一方通行的志向、美へと自己を仮託する差異への志向と考えられる。そして、〈色気〉という自己の仮託(自己消尽)は、第三者ソクラテス)には秘密にされなければならない。〈色気〉は、知をめぐる関係、社会、文明を破綻させる。〈かたち〉の共有に基づく関係性のなかの差異−−〈醜さ〉の度合いという差異−−についても、テオドロスは言及しているが、この差異は本当の意味での〈差異〉ではない。なぜなら、ここには自己の仮託が存在しないからである。テオドロスはソクラテスに対して、テアイテトスの醜さに言及することを不愉快に思わないようにお願いする。つまり、ソクラテスが〈不愉快〉というかたちでテアイテトスに自己を仮託することがないように念をおしているのだ。自分のことを醜いと言われてソクラテスが不愉快になる可能性への配慮は、ここには見当たらない。自己への自己の仮託は問題にならないからだ。ただ、ソクラテスは、テアイテトスとの対話のいちばん最後で自分たちの〈醜さ〉−−〈かたち〉の共有−−についてとりあげ、これを知の問題として解体していく−−

ソクラテス: そして、わたしが思うには、このめくれ鼻性が、わたしのこれまでに見た他のめくれ鼻性とは、異なるものを表示するような記憶像として、わたしのもとで座を占め、きみがそれらからなるような他のものも、同様になっていて、このめくれ鼻性が、たとえ明日わたしが遭遇するとしても[きみを]思い出させ、きみについて、正しく判断させることになるまでは、それ以前には絶対に、テアイテトスはわたしの内部では、判断されることがないのである。」(212ページ)(※わたしの日本語力ではこれを正確に理解することはできかねます。)

それにしてもテオドロスくん、言うよね……。