女性ではない

授業、来年度の時間割の資料づくり、授業。ワシ、どうみても「佐藤○子先生」ではないでしょ。この弐拾壱世紀中年が女性に見えるかね……。自分が誰の授業に登録したかぐらい確認しなさい。

合間にDawsonの第3、4章を読む。読みながら、もう半ば見捨てている感じ。一次資料と二次資料をよく読み、先行研究に反論しながら立論しているが、そこから導き出される見解に眼を見張るものはない。勉強家であることが第一印象として残ってしまうような文章になってしまっている。それ自体は悪いことでは決してないのですが……。

Richard Steele, The Conscious Lovers(1723)を重要視することに異論はないが、この作品をじっくり論じるような機会がないのは不満に感じる。演劇批評家と歴史家双方の読書対象になるように、複数の一次資料を適宜並べながら議論していくスタイルを意図的に採用していると思われるが、このスタイルは、一次資料の読解から見解が導き出されるというよりも、見解をもっともらしく見せるために一次資料が並べられているような印象を与える。ここには、ことばの本当の意味で〈読解〉が存在しない。

帰って爆睡。朝早く起きると眠い、という至極明快な因果関係を生きる。

今日は平日なのでチープなメロンパンを昼食とする……。