祝日はメロンパン

授業資料の印刷、事務的なメール数件、来年の時間割の資料づくり。雑用の一日なり……。内容はつまびらかにされないものの、なにやらヤッカイなことの発生を知らせるメールが届く。今度ばかりは責任者が対処するらしい。知らぬが仏なり……。

バック=モースを読了し、第1章を再読する。呼びかけによって生成されるグローバル公共圏という領野は、コンテクストとしてあらかじめ用意されている〈世界〉とは根本的に異なる。われわれはグローバルな〈内在性〉という条件のもと、外部の存在しないグローバル公共圏に生きる。このような立場にたつとき、World Perspectiveという批評的立場(外部)など許容されないし、読解の結果をすんなり〈世界〉へと解消してしまうことなどできない。読解という行為がグローバル公共圏への呼びかけと同義になるとき、テクストを読解する試みは、テクストをめぐる種々の権力と抗う行為になるはずだ。そして、そのような抵抗としての読解にこそ、新たな公共圏を開示する批評の快楽があるはずだ。〈世界〉というコンテクストへと解消してしまう批評が胡散臭いと思うのは、読解行為に必然的に伴うはずの苦悩とか葛藤があまりにも易々と忘却されているからかもしれない。ヘーゲルを拠点に、ヘーゲルに没入することで、ヘーゲルにハイチという言説領域を開示することは、テクストに残存する痕跡を追跡したあとで複数のテクストを包括するものとしての〈世界〉を予定調和的に夢見ることとは完全に異なる。ただ、ライティングのレヴェルでは、この2つの批評態度は混同される危険性を絶えずはらんでいるように思う。バック=モースによる具体的なテクスト読解の実践をもう少し詳しく知りたいと感じる(とくに近刊予定のヘーゲル論)。また、バック=モースがグローバルなメディアに寄せる期待や、言語ではなくイメージに寄せる信頼性については、少し懐疑的になる。この件、継続……。その後、ホルクハイマー&アドルノ啓蒙の弁証法』(岩波文庫)を手にとってみるが……。

The Plain Dealerの第2幕を読む。Dawsonは今日も放置。

今日は祝日なので少し高級なメロンパンを昼食とする……。