休日になじめない男

連休2日目。人多すぎ。いつものスタバが満員だったので、別のお気に入りイタリアン・カフェに行く。小さな店、フカフカのクッション、小さめの白くて分厚いカップ、熱いコーヒー、壁のモニターは『ローマの休日』のヘップバーンを無音で映し出す……ここでPeter Holland, The Ornament of Action(Cambridge UP, 1979)を読む。これを読むのは何度目か覚えていない。

読んだのに放置しておくとなんとなく落ち着かないので、テキトーにまとめてみる。

Dobsonの第2章は1670年代の悲劇についての議論。Popish Plot(1678)以後の政治的コンテクストにおいて、芝居がはらむトピカルな要素をジャンルという観点から考察したのち、Shakespeare作品(="Nature")の受容・改作がいかに適切で政治的に中立な振る舞いであったかが示される。さらに、このようなかたちで受容・改作された作品のなかでは、王権をめぐる政治的な問題ではなく、苦境に苛まれるヒロインのスペクタクル性によって惹き起こされるpathos(あるいはpity)が問題になる。つまり、政治というパブリックな領域の問題ではなく、個人の感情というドメスティックな領域の問題が提示されることになる。このような"affective tragedy"(あるいはshe-tragedy)の書き手として、とくにThomas Otway, Nahum Tate, Thomas Durfey, Colley Cibber, Lewis Theobald, Aaron HillなどのShakespeare受容者・改作者が議論される。また、このような作品のなかからauthorityとしての〈シェイクスピア〉像が生成されてきたということが、チラッと述べられる。18世紀にはShakespeareとOtwayが同一視されていたなんてことも述べられる。え〜と、Popish Plotを少し強調しすぎでないかね? Dobsonの議論の枠組みからは外れるけど、Nicholas Rowe, The Tragedy of Jane Shore(1714)はやはり俎上にのせるべきでないかね? 

第3章は1680年代〜1730年代までの話をゆるやかに。Shakespeare演劇をめぐって、popularな要素とliteraryな要素を弁別していくメンタリティの発生を、ブルジョワ公共圏や、上演(ステージ)と読書(プリント)の差別化などと絡めて論じる。Shakespeare演劇からvulgarやdisorderlyなものを排除することによってつくられたテクストは、その背後で新たに"great Original"としての〈シェイクスピア〉像を成型することになる、と指摘される。ここでの悪者は卑属なThomas Durfey。この章における理論的枠組みはPeter Stallybrass & Allon White, The Politics and Poetics of Transgressionに多くを負っている。やはり『境界侵犯』は名著ですな。

残りの2つの章はパスする。それでHollandの本を読みはじめたのです。

駅でprime minister候補の女性が「元気ですか〜」とマイク・パフォーマンスしている。「元気ですか〜」はうそです。それにしても皆に投票権があるわけじゃないんすから、ギザいいかげんにしてほしいですわ。人が多くて歩けない。

あらゆる意味で休日になじめない男、人ごみに埋没する……。