魚に食べられたい

今日はひたすら本を読む。

The Plain Dealerを読了する。4幕2場でヴァーニッシュが登場してきたあたりから、ドタバタが起こりはじめ、面白くなっていく(これは先週の会でも話に出ていたこと)。マンリーを慕うあまり男装をして彼に付き従う道を選んだフィデリアは、マンリーの言いつけにしたがってオリヴィアの家に行ったとき、オリヴィアの夫ヴァーニッシュにつかまってしまう。このときフィデリアのヅラが落ち、女であることがヴァーニッシュにばれてしまう。驚いたのは、このときヴァーニッシュがフィデリアの胸を触って女であることを確認することですわ。こういう直接的な確認方法って、この当時の芝居にあったけかね……。

Dobsonの第2章を読む。第1章は、1660年代のイングランド演劇におけるFletcherian romanceの重要性を指摘した後、The Law Against Lovers(1662)とThe Tempest; or the Enchanted Island(1667)の議論にすすでいく。とくに後者の議論に強調点がおかれている。Katharine Mausの先行研究を踏まえたうえで、Dobsonは、patriarchal monarchy(father-kingsの権威[Mausの議論])だけでなく、patriarchal family(fathers tout courtの権威)も、The Enchanted Islandでは問題になっていると述べる。そして、家父長制的家族/女性の従属(の発生)などについて、HobbesやLockeやParadise Lostを視野に入れながら、この芝居を分析していく。議論は芝居内部の言説分析にとどまらない。芝居内部のイデオロギーに反するようなジェンダーの言説がこの芝居の上演環境(芝居外部)に存在していること(Hippolito役を演じたのがMary ('Moll') Davisという女優であったこと)も指摘される。その後、Thomas DuffettのThe Mock-Tempestにも議論が及んでいく……。

Fletcherian romanceの議論は重要。だが、それがThe Enchanted Islandの議論のなかであまり活かされていない気がする……。「青年役を演じる女優」という視点は、この芝居の議論には不可欠だが、現時点では、Dobsonの議論(92年)を批判的に検討する態度が当然必要だろう。まあ、1660年代のイングランド演劇において、The Enchanted Island(そして、William DavenantとJohn Dryden)がいかに重要かはよくわかりました。第2章のまとめはまた気が向いたら……。

行きの電車であった方に帰りの電車でも遭遇する。

コーヒーにうつる自分の顔を見て、自分のなかのなにかが死んでいることに気づく。とたんに見えない魚たちが体の周りによってきて、ワシの肉をパクパク食べていく。なんとなく滑稽。死んだら、こんな感じで骨になりたいね。

本日も晴天なり〜……。