Noh/No Othello

ここでの記述が滞っているあいだに、Thomas D'Urfey, Squire Oldsappを読みはじめてやめたり、会議の席をうめたり、Foucaultは偉大だと思ったり、授業の合間にまたしても花を買いに走ったり、おじいちゃんのお誘いをうけて能楽堂で能版『オセロー』を見たり、久しぶりによった古本屋がこの夏で閉店するのを知ったり、G. Deleuze & F. Guattai, Kafka: Toward a Minor Literatureを再読し終えて圧倒されたりしていたが、相変わらず毎日どこかのコーヒー・ショップに立ち寄っていたのだから、これらの日々と記述が滞るまえの日々のあいだにはいささかの齟齬も存在してはいない、と言ってしまってよいだろう。

能版『オセロー』は、でぶのオセローの振る舞いがいささかも破滅的ではなく、やせのイアーゴの狡猾さがことごとく幼児的にしか映らず、美声のデズデモーナの脆弱さがはなはだ人形的であったという点で、かぎりなく悲劇的な芝居であった。当然、カタルシスなどあろうはずもない。最後に翻案者=演出家氏が舞台に登場して愚にもつかないことを述べ、この悲劇を最低のところにまで貶めていったのを見届けて席を立った。能版『オセロー』を悲劇のつもりで上演し、悲劇のつもりで幕を下ろし、挙句の果てに悲劇をなしとげたという充実感に身をゆだねきって微笑んでいる氏の無邪気さが、ワシの眼にはあらゆる意味で醜く映った。笑劇を演じきりましたと聡明に断言できるぐらいの清清しい滑稽さと愚鈍さを氏が示してくれていれば、夏の日差しに敵意を感じずにすんだはずなのだが……。となりの席に座っていたおじいちゃんも、この芝居についてはその後いっさい語らず。2人してケーキ・セットを食べたあと、長蛇の列で入ることができないビアホールに見切りをつけ、ホテルのティー・ルームでビールをあおって帰る。

暑い……。