眼の酷使

19日。試験問題2つを作成して、1日が終了。

PCに眼がやられる……。

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18日。高橋源一郎『惑星P−13の秘密』(角川文庫,H4)を3分の2ほど読む。現実世界との直接的接触を明示することばや、現実世界との間接的接触アイロニーアレゴリー)と考えうることばを確実に捕捉しながら視線は運動を続けていくのだが、いざそのことばの「意味」を考えてみようなどと思って視線の運動を停止させてしまうと、つまり、そのことばを現実世界にひき寄せてみようなどと思うと、たちまち、そのことばは現実との明白すぎる関係をいとも容易に断ち切って、沈黙を決め込んでしまう。同時に、それまでは存在していると思っていた物語性までもが跡形もなく消えてしまう。あとに残されたのは途方にくれる視線と、文字の羅列でしかない。運動を失った視線は死を見つめるしかない。「ふつう」の小説のように純然たる物語世界がそこに構築されてさえいたら、ことばと現実との距離感は安定的に査定されうるはずなのだが、作者は現実と物語のあいだでことばを宙づりにするような世界に筆をついやす。断片とカタログと荒唐無稽と笑いだけで良いのだ。ただ、ワシには少し長すぎるように思う。

蓮實重彦『齟齬の誘惑』(東京大学出版会,1999)を読了する。「寄港地」として機能する「第三世代の大学」についてくり返し語られる。

あらかじめ存在している差異を無批判に容認することで、自分を研究者だと納得することから、研究が始まるのではありません。その納得に安住することは、研究にとって、むしろ容易なことかもしれない。いまだに差異としては充分に意識されてはいない差異を具体的につくりだすこと。それが、研究だからです。(54ページ)

絶対がまとう複数の表情(ボードレール)(91ページ)

そもそも、教育とは「他人とともに考えること」の実践としてあるはずです。(183ページ)

実際、異なるものとの「闘争」を欠いた知識は、どこまでも抽象的なものにとどまるほかはない。また、真の知性の名にふさわしい「闘争」をへることのない変化は、たんに時流におもねる身振りでしかないでしょう。(191ページ)

自己など他なるものに食わせてしまえば良いのだ。

文庫100円也……。