物質のきらめき

カーさん読了。変化・運動としての歴史とは、過去・現在・未来にかかわる事柄の相互作用からなる(一定の留保をつけたうえで、これを進歩としての歴史とも言う)。この歴史は自発的に形成されるものではなくて、歴史家によってつくりだされるものである。なぜなら、歴史家がある物質を注目に値するものだと考え、それを歴史資料のひとつとして〈選択〉したときにはじめて、歴史資料は本当の意味で〈歴史の資料〉になるからだ。だから、純粋な意味で客観的資料というものは存在せず、物質(客体)と歴史家の解釈(主体)の交錯するところに、〈歴史〉が生み出されることになる。当然、歴史的存在としての歴史家の関与なくしてこのような歴史が生まれることはないため、歴史には、超越的な外部など存在しないことにもなる。こう述べたうえでカーさんは、歴史の作成者としての歴史家に必要とされるのは〈理性〉である、と説く。

歴史に掬い取られないという意味で忘却もありえるが、歴史として掬い上げられた資料にも忘却が存在する。なぜなら、それは歴史が言語の問題であり、主体の問題であるからであり、〈理性〉では、言語の夜(内在的忘却)を掬い上げることはできないからだ。この2つの忘却は、ある部分では繋がっているのだが、短絡的に重ね合わせてはいけない。言語を通して接触したと錯覚する言語の夜とは、歴史の欲望か、歴史の夢か、歴史の幼児期か……。言語の夜は、物質が歴史になるときに生成されるとするならば、物質を歴史のきらめきで包むのは、〈理性〉の〈選択〉ではなく、この言語の夜なのだ。いや、言語の夜とは、物質のきらめきのことなのだ。さらに、このようにして歴史が歴史化されるためには、歴史家による〈理性〉の〈選択〉だけでは不十分であり、むしろ、この物質のきらめきに触れようとする行為こそが必要とされることになる(たとえそれがどんな存在による行為であろうとも、そもそも存在以前のものによる行為であろうとも……)。ワシは〈読む〉という行為をこう考えるのですが……。

ちなみにカーさん、文学については2度「意味も重要性もない過去のストーリーや伝説のコレクション」と記すにとどまる……。自負と偏見。だから、言語の夜/物質のきらめきが見えないのだよ、カーさん。本書は「それでも−−それは動く」ということばで締めくくられる。たしかに歴史学と文学の関係性も動きましたな、をいちばん実感させる一書でした。

『コーラ』を読了する。というよりも、ずべての文字を眼で追った、という印象。

鈴村和成『幻の映像−−写真とテクスト』(青土社,1993)を購入。

今日から11月なり……。