推測=解釈

採点をしたり、休日返上でまた別の採点をしたりしている。それだけではおさまらず、紙を折って、封入して、糊付けをして、郵便局にもって行って発送したりしている。それだけではおさまらず、会議に出させられたり、打ち合わせに参加させられたりしている。それだけではおさまらず、……。

 

提案・説明する立場にあるものが、寄せられた意見や疑問点に対して、「どうしてそのような意見や疑問点が出てくるのか、むしろわたしの方こそ理解できない」としか答えられないのであるならば、時間の無駄だから提案などするな。提案をとおしたければ、とことん説明して疑問点を解消したり、理解を求める姿勢でことにのぞむのが筋だろう。「わたしが提案することは、わたしが良いことだと思っているのだから、わたし以外の人も良いと思うはずだし、それを良いと思わない人は、その人の方がむしろ間違っているのだから、わたしはそんな人の相手はしない」的な考えは、対話的思考にはほど遠いので、バフチンを読んで、出直してこい。少なくとも、いまのままでは会議の議長になる資質はない。

 

「ある時点で資料は語ることを止める。そこからは歴史家が推測を始めなければならない、それが文書の解釈である」(106ページ)と歴史家は語るが、このような推測=解釈がどこまで許容されるのかは、難しいところだと思う。とりわけ、文学に対して〈歴史的アプローチ〉を試みる場合、推測=解釈の許容範囲は一段と狭まるように思われる。「資料に語らせるにとどめる」のが、現在、もっぱら見られる〈歴史的アプローチ〉だと思われるし、もしかしたら、推測=解釈という概念は文学には存在しないように思われてしまう。〈歴史的〉ってなんでしょうかね?

 

George Taylor, The French Revolution and the London Stage, 1789-1805 (Cambridge UP, 2000)を30ページほど読む。

 

老いた眼=老眼が痛い……。