イヤフォンという最後の砦

今日も午前2時半。

新入生を対象とするあるクラスで、片方の耳にイヤフォンをつけたままワシの授業をうけている学生がひとりいる。はじめは両耳にイヤフォンを装着して寝ていたので注意をしたのだが、そうしたら、その翌週から寝ることなく授業はうけているものの、片耳にだけイヤフォンをつけるスタイルに変更してきた。ワシはそのスタイルを見たとき、なにか無性に虚脱感をおぼえ、以前したように注意することが馬鹿げた行為であるかのように思われてしまった。どう述べたらよいのかわからないのだが、そのようなスタイルをとる者にはなにを言っても無駄なのではないか、と思ってしまったのだ。それと同時に、そのスタイルからはなにか名状しがたい無気味さも感じられた。仮にその学生にふたたび注意のことばをあびせ、片耳からイヤフォンを抜かせたとしたら、その瞬間にその学生のなかにあるなにかが壊れてしまい、彼をとりまく世界も崩壊してしまうのではないか、と思われたのだ。その片耳に装着されたイヤフォンは、怠惰や反抗心などといった否定的なものの発現としてあるのではなく、彼をこの世界につなぎとめておくためのささやかな接点として、あるいは、彼の体内にある過剰さが体外に横溢して世界を無に変貌させてしまうことを防ぐ最後の砦として、つまり、彼にとっては肯定的な機能を担うものとしてあるかのように感じられたのだ。〈現実界〉をおしとどめるための〈象徴界〉の最後の戦い……。ワシが感じた無気味さは、その学生の過剰さ/〈現実界〉のかけらだったのかもしれない。その学生は授業が終わって教室から出て行くときに、かならずワシに「ありがとうございました」と述べていく。その「ありがとう」を耳にするたびに、ワシは「(今日もニンゲンとして生きるうえでの最後の砦をまもる僕の孤独な戦いを静かに見守ってくれて)ありがとう」と言っているかのように聞こえてしまう。まあ、ワシの思いすごしでしょうが……。

addio……。