ティンカーベルと大喜利

19日。ケータイ大喜利in四日市。公開収録に同行させられる。最後列に忍んで、なんとかカメラに映らないように苦心する。それにしてもすごい人気。イマダコウジ氏の司会ぶりに感服する。

FB経由で突然おめでたい話を耳にする。なぬなぬ、おめでとうございます。

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16日。『障子の国のティンカーベル』@東京劇術劇場。台風接近はtheatregoerを一瞬だけ躊躇させる。野田秀樹のこの若書きを見るのは2度目だが、今回の再演は毬谷友子版の客席のひとつを埋める。奥村佳恵版の再演はないようだが、初演では見られなかった毬谷版を今回見られたのはよかった。この芝居のなかには歌が多く出てくるのであるが、ストーリーや演技よりも、毬谷の歌声が、初演の奥村のそれを記憶の彼方から呼び寄せてくれる。そして、歌声の谺によって2人の女優の姿が重なりあう瞬間が幾度もある。歌というのは不思議な力をもっている。Echo、エーコ、ええこ。ティンクは道化と言ってよいであろうが、若かりし日の劇作家はかつてあった道化ブーム的なものに感化されてこの作品を書いたのであろうか、などと思う。

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14日。ちまたで噂のアクティヴ・ラーニングも結構だが、たいしてラーニングしない状態でアクティヴにhate speech的なプレゼンをされても困るわな。始末がおけないのは、そういう学生のアクティヴさが水を得た魚のようになってリベラルな見解を述べる学生のプレゼンを小馬鹿にする、ということだがな。プレゼンの形式的側面のみ練習することを旨とする場合、hate speech的内容について皆で議論したり、吟味したり、異なる視点の文献を読んだりする時間がない。したがって、ワシが言えるのも、プレゼンの形式面についてでしかない。アクティブになるまえにラーニングをして、おのれの見解を相対化できるくらいの知性をもつ必要があると思うのだが、実際にはこの授業の範囲内でそこまで実践させることなどできないし、プレゼンが行われる際にも、プレゼンの形式面にしか口出しすることができず、hate speech的内容自体はアクティヴに教室中に放置されたままになってしまう。これは危険だ。危険だとわかってはいるが、この授業の枠組みではどうすることもできない。学生の意見を単純に否定するだけでは、逆効果になりかねない。忸怩たる思いで、エドワード・サイードの『知識人とは何か』をこの4年のあいだに一度は読んでほしい、と懇願するにとどめる。

イーヴリン・ウォー『ポール・ペニフェザーの冒険』、『コンラッド短編集』読了。前者はおそらく『大転落』(岩波文庫)の名の方で人口に膾炙している小説であろうが、あいにく別の翻訳者による福武文庫版しか手元にないので、これを読む。

暑い……。